唐子が可愛い三河内焼の歴史と特徴!

伝統工芸品・民芸品

日本には実に様々なやきものが誕生してきていますが、なかでも三河内焼(みかわちやき)は非常に芸術的で美しい見た目をしているのが特徴です。今回はそんな三河内焼がどのようにして誕生したのか、またその魅力についてなどを詳しく紹介していきます。

三河内焼誕生の経緯

今から400年も前のこと、26代平戸藩主である松浦鎮信(まつらしげのぶ)が昔の朝鮮と呼ばれる国からある陶工の一人を連れ帰ってきたことから歴史は始まります。名を巨関(こせき)と言い、後に藩主の名を受け継いで平戸の中野で窯を築き上げることに成功しました。 その巧みな技術力は多くの日本人の心をひきつけ、徐々にその知名度を上げていくことができたため、日本で最も名の知れた中野窯・三川内焼が誕生していったのです。しかし、その活動は時に困難なことに直面することになります。別名「平戸焼」とも呼ばれることがある平戸の地は良い陶石にあまり恵まれいなかったため、巨関とその息子である今村三之丞はさらに良質な陶石を探し求めるために三川内へと赴くことになりました。 長旅のあまり体調を崩すなどかなり過酷な状況に立たされていましたが、ある時三川内の地で平戸藩御用窯として庇護を受けることとなり、そこで新たに三河内焼を始めることとなったのです。

苦難の末の発展

陶工たちは毎日がむしゃらに作品を仕上げていくことを喜びと感じ、ひたすらに優品を作ることに没頭していった結果、青磁・白磁・染付をはじめとして錦手・彫刻物・捻り物など多種多様な技の数々を生み出すことに成功していきました。このような日々の努力が徐々に実を結んでいき、世界から見ても高い技術力で作り出された品は非常に貴重な価値があると認められるようになり、生み出した製品の数々をオランダや中国へと輸出するまでに成長していったのです。これらの品は海外の王侯貴族にも深く愛される存在となり、日本の物づくり文化を評価する声が多く上がったことはいうまでもありません。

唐子と三河内焼

三川内焼の歴史については大体把握いただけたかと存じますが、今度はその魅力について解説していこうと考えます。まず、三川内焼のトレードマークと言えば「唐子絵」になると思いますが、この独特の柄は元々は「献上唐子」といわれている柄の一種で、平戸藩御用窯の代表として他の窯で焼くことが決して許されない「お止め焼き」と呼ばれるものでした。 陶器などに描かれている唐子の人数によって意味が違っており、七人唐子は献上品、五人唐子は贈答用などとされて贈られることが多かったと言います。

三河内焼の作り方

三河内焼は、天草砥石と言う石を砕いて混ぜ合わせることで土台とします。この時に粘土に気泡が入り込むと、ろくろを使用して整形を行う場合に、陶器に変形がみられるため気泡を抜きつつ粘土を整形するのです。整形後にろくろを使用して様々な焼き物へと変わる成型を行います。この焼き物の特徴は焼きを入れる際に900度で素焼きをしてから素地に呉須による絵付けを行います。細工については、細かな細工を施すことが出来るのが特徴な時期による焼き物が三河内焼です。なお本焼き時において、釉を使用とする点は他の陶磁器と同じですので釉を使用後本焼きを行います。また、この陶磁器は将軍家に送る献上品として有名な焼き物で様々な細工を工夫して凝らしているのは、将軍家の贈呈品として献上するに際して、職人が自己の能力が高いことを示すために工夫を凝らしたと言われています。また、三河内焼初期の磁気については、豊臣秀吉が朝鮮から連れ帰った陶工に窯を焼かせたことが始まりでこの当時はまだ天草磁石を使用しての絵付けや年度に混ぜ合わせて磁気に艶を出すなどを手法を取り入れていませんでした。平戸藩が窯を扱い登記を作り出す頃になった際に、天草にて陶石が発見されたことから、現在の三河内焼の作り方に変貌を遂げたのです。ちなみに、細工で使用されている技法は透かし彫りと呼ばれる手法で高い技術を有します。この技法の進化の秘訣は焼き物の細工を細かな仕掛けを施すことが出来るという秘訣で、細かな細工を施すことが出来る分、技術を持たない者が仕掛けを施すと出来上がった作品は、統一性のない不揃いな仕掛けとなるのです。つまり、熟練された職人の腕により均一な細工を施すことが出来るため、技術を持たない者が細工を行うと不揃いとなります。

佐世保の日本遺産~三川内焼編~

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