赤膚焼の歴史と特徴

赤膚焼

奈良県には赤膚焼という焼きものがあり、この始まりというのがはっきりしていないのですが、安土桃山時代の豊臣秀吉などが行っていた茶道などが、広がって秀吉の弟である秀長が、当時の郡山城主として土地を治めていたところに、職人を呼んできて茶道具を作らせたのが起源という可能性があるとされています。当時は武将などが功績を治めた褒美の品として、茶道具というものは大変重宝されていたと言われているのでその点でも大切なものだった事が伺えます。

神事との関係性

ただそれより以前から神事との関わりがあるのではないかとされている仮説もあります。歴史的に奈良には日本で最も古い都があり、大体その朝廷などがある場所というのには大きな寺社や仏閣などがたくさんありました。そのようなところでは必ず焼き物である陶が必要となってきて、祭器として使用されます。現在でも東大寺などではお水取りと言って、人々の無病息災を祈るという伝統行事が行われていて、その時に使う器や大仏の茶碗なども作っていたりします。その点からしても、本格的に広がる前から焼き物の文化というのは存在していた可能性というのがかなりあるように感じられます。他にも万葉集の中にも出てくる有名な言葉で、青丹よしという枕言葉がありますが、ここには焼き物に適した良い土があるという言葉の意味として使われていたのだそうです。

普及のきっかけ

本格的に多くの人に広まったのは1800年ごろに大和郡山の藩主が瀬戸や京都から陶工を招いて、奈良市にある五条山に開窯したことに作られることになったと言われています。この赤膚焼という名前の由来は、五条山の別名である赤膚山からきているとも言われていたり、赤色に焼ける土の色と同じことからきているとも言われたりしています。

中興の祖 奥田木白

中興の祖と言われている中には、名工の奥田木白というものがいて元々商人だった彼が、平素からお茶を嗜むようになって俳句などにも興味のある風流な人で、清水焼を写したり楽焼を焼いて楽しんでいたのが評判となり、商人をやめて陶工になりました。その木白の卓越した技量によって赤膚焼というものが、茶道の道具として高く評価され世の中に名を知られるようになったという歴史があります。特徴としては、鉄分を多く含んでいる赤みを帯びた色をしているところが最も有名なところです。中には鹿の絵や奈良の風物などを描いている奈良絵などが施されているものもあり、豆皿といって可愛い小皿などもあります。

赤膚焼の作り方について

赤膚焼は奈良県奈良市の五条山、別名赤膚山周辺でつくられる陶器です。その作り方については、まず土作りから始めます。赤膚山の土は、赤土といって酸化鉄を多く含んだ土です。その土を用いて陶器を焼くと、素地は赤や黒の色合いに変わります。 その土は地面を掘り出して、すぐに使えるものではなく水と混ぜて泥にしたあとザルで砂利などの不純物を取り除きます。それから、泥を容れ物にいれて水分を取り除き乾くのを待ちます。土が乾いたら、それを練っていきます。練り方は、菊練りという一般的な陶芸でよく行われる手法が用いられます。菊練りは土を捏ねてひねることで、菊の花びらのような形になる練り方です。菊練りをしていくことで、土の中にある空気は押し出されて、焼いているときに破裂することを防げます。 土を十分に練ったあとは、ろくろに乗せて成形をしていきます。赤膚焼では体験教室で一般の人で作る機会がありますが、その際にはろくろ成形は難しいので、手びねりという手法が用いられる事が多いです。形ができたら、それを乾燥させます。 乾燥が終わったら800度くらいの低い温度で素焼きをして、それから釉薬を掛けていきます。乳白色の釉薬がかかった状態の陶器をしばらく乾かしたら、今度は1200℃から1300℃くらいの高温で本焼きをします。本焼きをしたあと、そこに赤膚焼の特徴と言える奈良絵の絵付けを行います。奈良絵は室町時代から江戸時代に描かれた奈良絵本という絵草紙の絵柄のことです。素朴で親しみやすい絵で、現代の人間からすれば可愛らしい人物や動物が描かれます。奈良絵は、まず絵の下書きと言える輪郭を墨で書き、それから鉱物からつくられた絵の具を使って色をつけていきます。緑や赤といった色は、絵付けをしているときにはそうと見えませんが焼くことで色合いが変わります。それで絵付けをしたあとは、また乾燥させてから焼きます。このように繰り返し焼きを入れることで、ようやく赤膚焼は完成します。

奈良の伝統工芸-赤膚焼-

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