有田焼のあんなことやこんなこと

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古伊万里とは!?数百年前に海を渡った世界的骨董品

古伊万里とは国内の磁器生産ではトップとも言える有田焼の一種で、主に江戸時代に生産された有田焼や周辺の三川内焼・波佐見焼なども含めた総称として呼ばれています。 17世紀に当時の朝鮮より持ち込まれて以降、様々な様式を生み出す中で進化していった有田焼は、江戸時代になると肥前国を治めていた鍋島藩により職人の保護や育成が行われるようになります。 とりわけ技術の漏洩には神経を尖らせ、職人は一生当地から離れることが出来ず、藩が専売ですべてを買い上げるなどかなりの力を注いでおり、国内での販売はもちろん海外に向けての交易品として珍重されていました。 有田焼の積出港である伊万里港より長崎出島を経由して海外へ輸出されたことから、港の名称を取り古伊万里(オールド・イマリ)と呼ばれて、欧州を中心に世界中に輸出されていくことになります。 当時の国内では鎖国政策により海外との交易はごく限られたもので、長崎の出島は交易に中心地となりオランダ相手に貿易が行われていました。 一方で当時の世界情勢を見たときに、磁器の生産で有数であった明が清へと交替する最中で海外との交易が停止されたという問題が生じたため、当時の貿易の担い手であったオランダ東インド会社は日本の古伊万里に着目して世界中へと輸出されることになります。 19世紀になるとジャポニズム(日本趣味)として日本の浮世絵や工芸などが世界中で人気を集めるようになり、とりわけ西洋の作家が日本の色彩感覚に感化されるという事もあったのですが、古伊万里の輸出が始まった当時はそうした人気が出るかなり以前のことになります。 日本という国の存在感が全く無い時代に日本の伊万里が世界中に輸出されたというのは非常にロマンを感じるところであり、当時からすでに確立されていた日本の美意識や工芸の技術力が初めて世界で認識された意義深いものといえます。 その後は清が再び交易を開始したことで価格競争が生じて輸出が停止されることになるのですが、今もなおその輝きは失われること無く私達を魅了しております。 古伊万里様式とは 古伊万里様式という言葉を効かれた事はないでしょうか? 古伊万里様式とは、その名の通り古い伊万里焼の様式のことです。 江戸時代から400年歴史を持つ有田焼は、 「柿右衛門様式」「色鍋島様式」「古伊万里様式」の三様式に分けられます。 古伊万里様式は、元禄期(1688~1704)に生まれ生産されていました。 元禄から享保にかけてヨーロッパで人気を博し、大量に輸出されました。 伊万里の港で船積みされたことから、伊万里焼と呼ばれました。 古伊万里様式は、染付、金襴手が代表です。 濃い染付の藍色の素地に、赤や金の上絵の具を贅沢に使った作品や、 色絵の上に金泥や金粉で豪華な模様をあしらった作品が特徴です。 多様な絵模様と装飾性は、当時の元禄文化を反映して豪華絢爛なものです。 植物や動物、幾何学、唐草模様などが描かれています。 多様なモチーフで全面が埋め尽くされたものが多いです。 主に江戸時代末期までに作られた有田焼のうち、 色鍋島様式、柿右衛門様式に属さないものは、 古伊万里様式に分類されます。 ※長崎県ハウステンボスの中にあるポルセレインミュージアムの画像です。 万博伊万里と呼ばれる海外向けに輸出された幕末・明治期の大作が多数保管されております。 かつて世界の市場を目指し、全身全霊で作陶に向かっていた職人たちの矜持と技量が偲ばれます。 ドイツ・ドレスデンにあるツヴィンガー宮殿 弊社社員が実際にドイツのツヴィンガー宮殿に行った際に撮影した写真です。 この建物を有田では六分の一の敷地を再現させていますが、内戦の空爆被害が生々しく、焼け焦げたツヴィンガー宮殿の姿です。 フリードリッヒ・アウグスト王の磁器に対する執着心のエピソードが、その時代財力の象徴だった中国・日本の陶磁器。プレイセン王の磁器コレクションのドラゴンの壺など151点の磁器を、ザクセン兵600人と交換したり、ザクセンで白い磁器を作れないかと宮廷にヨハン・フリードリッヒ・ベットガーを城に幽閉したほど。 そんなアウグスト王のコレクションは内戦で破壊・略奪に遭い、疎開させた一部分の品々が、宮殿内のポルツェラーン・ザムルンク(磁器収集室)に展示されています。 中国独特の物、中国の技術をお手本にして日本の美を表した物。日本独特の物、中国や日本をお手本にしたヨーロッパ。マイセン独特の物、ヨーロッパを真似した中国・日本の物と。お互いの良い所や技術を学び独自の美と技術を組み合わせいる色んな陶磁器のコレクションがあり、陶磁器美の宝庫に圧巻します。  近年館内のリニューアルをシャネル、アルマーニ、ヴィトンに携わる建築家であるアメリカの、ピーター・マリーノ氏に内装とコーディネートをお願いされてます。コレクションの展示もシンメトリ・三角構成などでディスプレイされており、古伊万里に新しい息吹を与えてるようでした。  このツヴィンガー宮殿。国交もない時代の40年以上前に、有田から七人の男たちが宮殿に眠る古伊万里を夢見て訪れた事が有田焼の歴史に残ってます。 磁器の間 ちなみにこちらはハウステンボス内にあるポルセレインミュージアム内にある一室です。 壁全体に陶磁器の小物が配置してあります。 東洋磁器が無数に保管されていた、ドイツのツヴィンガー宮殿に倣いつくられた部屋です。 輸出用古伊万里について 初期伊万里、古九谷様式を経て発達した有田焼=伊万里焼は、1659年にVOCから大量注文を受けて以来、ヨーロッパをはじめとする各地から期待された磁器生産地であり、17世紀後半から18世紀初めにかけては、次期輸出が最も盛んに行われた磁器でした。この時期には、古伊万里様式と柿右衛門様式と製品が輸出の花形的存在でした。柿右衛門様式は、1670年代頃に様式が確立され、東洋的雰囲気を持つ作風は、ヨーロッパの人々を魅了しました。元禄時代(1688~1703)前後には、新しい色絵の染錦手を中心とする古伊万里様式が柿右衛門様式にとってかわり、当時ヨーロッパで一世を風靡していたバロック文化に受容されて流行しました。 輸出された器もバラエティに富み、食器類のほかに人物や動物をかたどったもの、観賞用の壷と瓶のセット(ガーニチャー)など様々な種類の磁器が創り出されました。17世紀後半に本格的な輸出の時代を迎えます。 VOCは木で作った見本や図面を日本に送って磁器制作上の細かな指示を与え、海外でより良い値段で売れるもの、 需要の高いものを求めました。皿、碗、瓶などの注文が最も多かったのですが、オランダやイギリスの金属製ポットを模したもの、 O(油)、A(酢)など中身を示す言葉の頭文字を付けた注器などヨーロッパでしか見られなかったような製品も作られました。 また、真鍮や金、銀を用いて装飾を施す方法も盛んに行われました。磁器という素材を最大限に活用し、観賞用あるいは実用に供する為に 工夫しながら加飾をおこなった様子が窺えます。 人の背丈ほどの超特大花瓶 色絵花鳥文 色絵花鳥文大花瓶は有田町中の原にある、賞美堂本店に飾られております。 色彩の豪華さとその巨大さに圧倒されます。幕末から明治前期には海外の輸出目的にこのような巨大な花瓶や大皿が有田で作られており、時代のエネルギーを感じさせます。ろくろで成形されたものですが、手の長さには限度があるため、一気に作る事は出来ませんでした。この花瓶の場合、胴部はおそらく3つの部分を別々に作り、生乾きの時に継いでおります。さらに首を継ぎ、朝顔型に開いた口部も別に成形しております。筒型の大火鉢のような生素地を接合して作りますが、狂いなく積み上げるのには相当のワザが必要とされます。また焼成により焼きへたらないような強度も必要です。このような大物作りの技法は幕末明治がピークであり、今日では再現が不可能に近い状態です。 焼き物は焼成により2割近く縮みます。この2mの大花瓶は成形時にはさらに大きなものだったはずです。その素地にまず染付をほどこします、藍色に見える部分の事です。そして釉薬をかけて1300度で本焼します。次は上絵付(色絵)を行います。有田では赤絵と呼び、また金彩を伴う場合は錦付けとも呼びました。この作品には赤と金彩が使われております。染付の藍色と上絵付の金および赤の配色は、古伊万里金欄手様式の基本色です。元禄時代に完成したこの様式は、ヨーロッパの王侯貴族を魅了しました。そして明治になっても有田の伝統的な美の様式として続き、今日でも有田焼と言えばこの配色をイメージする人が多いです。 胴部中央の窓には、富貴の象徴である牡丹が描かれ、また桜の下に鷺が羽ばたいております。他にも鳳凰、竹虎、龍、七宝など各種の吉祥文が見事な筆致で描かれており、豪華さと緻密さが調和した明治の古伊万里の代表作と言えます。 万博博覧会は1861年のロンドン万博に始まりますが、有田焼も1867年のパリ博に出品されています。その後1873年(明治6年)のウィーン博、1876年(明治9)のフィラデルフィア博、1878年(明治11)のパリ博と続きました。この大花瓶も明治のこうした万国博に出品されたか、輸出されてものと考えられ、ヨーロッパから里帰りしたものでございます。